見て歩く甲斐武田氏の史跡ー神奈川県相模原市緑区(2−1)

法印(日向薬師の山伏)の首塚(津久井町青根)ー三増合戦関連

正確には、『前大先達権大僧都勝快法印の首塚』です。
永禄12年、武田信玄は小田原攻めの帰途三増(愛川町)で北条氏側からの追撃を受けます。

その三増合戦は、山岳戦に慣れた武田の勝利に終わりました。
10月8日、甲府に引き上げる武田隊を、日向薬師の山伏の一団が青根(駒入原)で待ち伏せしたのですが、

奮戦空しく、前大先達権大僧都勝快法印をはじめとして、討死しました。

その首塚のあった場所に案内板はあるのですが、塚らしきものは見当たりません。
案内板の左の方に石の碑があったのですが、これは昭和44にできたもの。
せめて石とかでもあったら!と思い、探したのですが見つかりませんでした。

武田軍は、支隊に分散して撤退したとは思うのですが、それにしても青根とは!と少し疑問に思います。
                                 (09/ 1/26 訪問)

昭和44年にできた碑 案内板のみで首塚はありません。

討死した日向薬師の山伏を祀る八幡宮(津久井町青根)ー三増合戦関連

諏訪神社

八幡宮
国道413号線を道志方向に走って、
宮沢新橋の手前で左折するとすぐ右手に
諏訪神社があります。

神社に向かって右側に
小さな八幡宮があるのですが、

これは、武田軍を迎え討って討死した
日向薬師の山伏の一団を祀るものです。

元は、離れた山の上にあったものを、
明治年間に諏訪神社境内に、
安置したのだそうです。

左は、
『かながわの名木100選』にえらばれている
諏訪神社境内にある大杉です。
(武田氏の史跡とは関係ありません。)
             
(09/ 1/26 訪問)

武田軍に足弱百人ほどとられた青根郷(津久井町青根)

天文五年(1536年)武田軍は相模(さがみ)の青根を攻撃して、足弱を百人ばかりとったという話があります。
1536年と言えば、武田信玄が元服して晴信を名乗った歳です。
なぜ、信虎はそんなことをしたのか?なぜ、青根なのか?足弱とはどういう人のことか?

と、色々な疑問が湧いてきたので、少し調べてみました。

まず、その理由は、前年に起こった山中合戦(武田信虎vs今川輝照・北条氏綱)。
この戦いで信虎は弟の勝沼信友を失いました。その鬱憤ばらしであるとの文献があると聞きました。

また、青根は、甲斐から駿河へ抜ける交通の要所であったと思われます。
甲州街道藤野宿→藤野町牧野→道志川→津久井町青根→足柄上郡山北町犬越路→丹沢西側→小田原
当時、甲斐と相模の国境が道志川だったとすれば、青根は国境に近い北条氏の領地だったと思われますので、
北条氏に対する鬱憤ばらしだったと考えると納得がいきます。
『足弱』とは、女性、子供、老人とのこと。『とった』とあるのは、『殺した』ということでしょうか。

2009/ 1/26 青根を訪ねてみました。今件に関する案内板などはありませんでしたが、少し感慨を持って風景を眺めました。
上と下の写真は、現在の青根の様子です。                 (09/ 1/26 訪問)





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