見て歩く甲斐武田氏の史跡ー神奈川県相模原市緑区(2−2)

小山田八左衛門行村の墓(津久井町青野原)

天正10年3月、織田・徳川の連合軍が武田勝頼を攻めたとき、
武田家の御親類でもあり家臣の立場でもあった小山田信茂は、 勝頼を裏切り、武田家を滅亡に導きます。
しかし、甲府善光寺に駐屯していた織田信長のもとに出向いた 信茂は、信長に殺されてしまいました。

武田家滅亡後、信長の武田家残党狩りから逃れるため、信茂の従兄弟だと言われる小山田八左衛門行村は、
甲州街道藤野から牧野を越えて、現相模原市緑区青野原へと逃げました。
青野原から青根、丹沢を越えて、小田原に逃げるつもりでした。
途中青野原の手前の道志川を渡るときに、狙撃されて死亡したそうです。 死体は、村人によって、埋葬されました。
道志川には、今は亀見橋がかかっていますが、橋の上から覗いても足がすくむ谷の深さです。


国道413号線を道志方向に走り、青野原西野々の信号の一つ手前の道を右手に曲がって厳しい下り道を進み、
カーブしている手前の右手上に、小山田八左衛門の墓があります。カーブしている道を更に下ると、亀見橋に出ます。

青根から犬越路に抜ける道に、順にババア宮、ジジイ宮、小山田六右ヱ門息女折花姫を祀る神社があります。
小山田八左衛門は、折花姫と老臣、老女を伴い、逃げたのですが、順次追っ手に殺されたのでは?と思われます。

池波正太郎作の『真田太平記』に、「小山田信茂は武田勝頼に両親を人質にとられていたが、
従兄弟の
小山田八左衛門が人質の両親を取り返してから、勝頼に反旗を翻した。」と
ありました。
この老臣、老女は、小山田信茂の両親ではないか?とふと思ったのですが、何の根拠もありません。

                                    (09/ 1/26  訪問)

(現地案内板より)

道志川に架かる亀見

亀見橋の上から
小山田八左衛門行村の墓

ババァ宮とジジィ宮(津久井町青根)

国道413号線を道志方向に走り、宮沢新橋の手前で左折すると青根の部落があります。
この道を神ノ川沿いに南下して部落の家が少なくなるころ右手にお店があって、道が広くなっているところがあります。
宮沢新橋からざっと3.5kmぐらいのところです。 このお店の向かい側に小さな社があって、これがババァ宮です。
小山田八左衛門が道志川で狙撃され息絶えたあと、小山田六右ヱ門息女折花姫を守りながら逃げてきた
老臣と老女のうち、老女がこの地で殺されたのでしょう。

小山田八左衛門が死んだ道志川からババァ宮まで、これもざっとですが、9.5kmといったところです。
この距離をどんな思いで逃げたのかと、想像するだに悲しくなります。

ババァ宮から更に2.3kmほど南下したところに神ノ川(道志川の支流)キャンプ場がありますが、
その入り口を挟んだ左手にジジィ宮があります。この地で老臣が殺されてのでしょう。
折り花姫は更に逃げて、でも逃げ切れず、結局命を奪われることになりました。    (09/ 1/26  訪問)

(現地案内板より)

ババァ宮

ジジィ宮

折花神社(津久井町青根)

ジジィ宮から2km南下したところにある折花神社。
小山田六右ヱ門息女折花姫が、織田軍の武田の残党狩りから逃れてこの地まできたけれど、とうとう殺されて、ここに祀られています。

ここより更に2.2km南下した長者舎に、折花姫が匿われていたという伝説があるので、ここが折花姫の最期の地ではないのでしょう。
現在は、折花神社は縁結びの神様、長寿の神様として、人々の敬愛を受けています。

折花姫は、他に平家の落武者の姫だという説もあるそうです。                        (09/ 1/26  訪問)

(現地案内板より)

神ノ川の清流

武田菱の案内板
折花神社

折花姫が匿われた長者舎(津久井町青根)

折花神社から更に2.2km程南下したところに、長者舎という地名が残っています。
この名前の由来ですが、織田軍による武田の残党狩りから逃れてきた折花姫は、
若い武将に助けられ、その武将一家に匿われました。
しかし、折花姫はうかつにもぞうりを神ノ川に流してしまい、存在を見つけられ、殺されてしまいました。
この武将一家の家があったことから、その辺りは長者舎と呼ばれるようになったそうです。

犬越路は、残念なことに通行止めとなっていました。
いつか、車ではなくて、歩いて犬越路を越えてみたいものです。     (09/ 1/26  訪問)

犬越路方面へは通行止めでした。

折花姫がぞうりを流したのは、この辺りでしょうか。



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