信玄伝説の白華山慈雲寺(東町中) |
慈雲寺には、信玄縁の『矢除石』というものがあり、二通りの説があります。
一つは、次のようです。
信玄は慈雲寺の天桂禅師を師と仰いでおり、信濃での合戦に赴くときは、
その教えを請うていました。あるとき、天桂禅師は門前の岩に乗り、「矢を射よ。」と命じました。
信玄の家臣が至近距離から禅師に向かって射ても、矢は全て岩に当たったというもの。
信玄は霊力のある『矢除札』を受けて、戦地に赴きました。
もう一つは、次のようです。
信玄が信濃に向かって進軍中、
通りかかったお寺の前にある岩の上にお坊さんが立っていました。
無礼な態度だと家臣が矢を射ても全然当たらず、全て岩に当たったというものです。
かつては、広かった慈雲寺も参道の階段が国道で切られています。
矢除石は、国道を挟んだ石の階段の途中にあります。
本堂の屋根には武田菱と諏訪家の家紋がが見えます。
天文6年焼失の再建の際には、信玄が大旦那となったそうです。 (08/ 3/16 訪問) |
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山門
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本堂 |
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矢除石
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前庭にある天然記念物『天桂の松』
戦国時代当時の住持天桂玄長禅師が植えたものと伝わっています。
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信玄伝説の承知川橋の橋板(久保海道町) |
甲州街道、諏訪大社秋宮まであと300mのところに、承知川橋という大きな一枚岩があります。
これは、かつて承知川にかかっていた橋板だったとのこと。
永禄4年、第4次川中島合戦に向かう信玄は、諏訪大明神には社殿の立替を、
千手観音には三重の塔の建立を約束して、戦勝祈願しました。
ところが、戦いは実質引き分けとなり、
すっかり忘れたしまっていた信玄がこの橋を渡ろうとすると、馬が止まって動きません。
それで、戦勝祈願した約束を思い出し、「承知しました。」と叫ぶと馬が動き出したのだそうです。
それ以来、その川は承知川と呼ばれるようになりました。
昭和52年に、承知川橋を架け替えたので、この橋だった岩をこの位置に保存しました。
岩の表面の煉瓦模様は、滑り止めとも、信玄の埋蔵金の隠し図とも言われています。
(08/ 3/16 訪問) |
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諏訪湖博物館・赤彦記念館(諏訪法性兜のあるところ) |
諏訪法性兜は、実際に信玄が戦場に赴くときに被っていた兜だと思い込んでいて、
諏訪湖博物館・赤彦記念館に実物があると聞いて、見に行きました。
しかし、展示されていたのはレプリカで、ややがっかりもしました。
そして、館長さん自らご説明いただいたところによると、
諏訪法性兜は、実際に信玄が被っていたものではなくて、
『ゆかり』の兜とぐらいにしか言えない、よく分からない部分が多いとのことでした。
はっきりはしないのですが、兜のいわゆる鉄の帽子の部分は戦国時代のもので、 あとの飾りは、後になって付けられたものらしいということでした。
なぜ諏訪法性の兜が信玄の兜だという説が広まったかというと、
江戸時代の本朝二十四孝・八重垣姫物語にあるようです。
八重垣姫物語 は、諸説あるようですが、要するに上杉謙信の娘八重垣姫と 武田勝頼の恋物語で、勝頼に恋している八重垣姫が諏訪法性の兜を片手に諏訪湖を渡る
というのが、ハイライトのようです。
現在は、諏訪大社神長官守矢家から譲り受けた諏訪湖博物館・赤彦記念館が、
この兜を所蔵しているとのことでした。
信玄が実際に使った兜は、塩山市の恵林寺にあります。
写真で見たことはありますが、実物はまだ見ていません。 (07/ 1/ 5 訪問) |
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諏訪湖博物館・赤彦記念館 |
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諏訪法性兜
『風林火山ゆかりの地』より許可を得て転載
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諏訪湖にある諏訪法性の兜を持つ八重垣姫の銅像 |
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