見て歩く甲斐武田氏の史跡ー長野県下諏訪町(2)

諏訪大社下社春宮(下諏訪町193)

参道

神楽殿
幣拝殿

一之御柱

諏訪大社下社秋宮(下諏訪町5828)

山下清の絵葉書より

参道

神楽殿
幣拝殿 一之御柱

諏訪大社下社大祝金刺氏の居城霞ヶ城(上久保)

諏訪大社は上社と下社があり、上社大祝は諏訪氏、下社祝は金刺氏がつとめていました。
家紋は、諏訪氏、金刺氏とも『三ッ葉根あり梶の葉』で、
諏訪氏は金刺氏の後裔であるとの説もあるようです。

諏訪氏と金刺氏は、長年にわたり抗争を繰り返して来ましたが、諏訪氏の方に勢いがありました。
文安六年(1449)、上社と下社は武力衝突し、
その後も、上社と下社の抗争が続きましたが、おおむね下社が劣勢でした。
長年にわたり諏訪氏の内部でも大祝家と惣領家の争いの後、分裂する騒ぎがあり、
あちこちでも信濃の有力豪族間の抗争が絶えませんでした。
永正十五年(1518)、諏訪頼満は金刺昌春の拠る萩倉の要害(山吹城)を攻撃し、
金刺氏は負けて結果没落してしまいました。
萩倉城を落とされた下社の大祝金刺昌春は甲斐国の武田信虎を頼って落ち延びたのですが、
これが信虎に諏訪郡侵攻の口実を与えるところとなり、
享禄元年(1528)信虎は下社金刺氏を押し立てて諏訪に侵攻しました。
現在の長野県諏訪郡富士見町神戸での合戦は、お互いよくしのぎあって決着はつきませんでした。
その後小競り合いもあったものの、信虎の息女と諏訪家跡継ぎの頼重との婚儀が整い、
武田家と諏訪家は和睦しました。
武田氏の力を借りて下社再興を目論んだ昌春は、
享禄四年(1531)に飯富兵部らが信虎に反乱を起した時に戦死したと伝えられています。
戦国時代末期に金刺氏は断絶し、その後、支族の今井氏が入って武居祝と称し祭祀を継承しましたが、
大祝を名乗ることはなかったとのことです。

下社秋宮のすぐ近くにある霞ヶ城は、金刺氏の居城です。    
(2013/ 8/14 訪問)

秋宮正面右にある霞ヶ城跡

ホテル山王閣から見た霞ヶ城跡
金刺氏の家紋は、諏訪氏と同じ
城の中心部があったと思われる場所

(現地案内板より)

ホテル山王閣の前にある諏訪大明神大祝・金刺盛澄の像。
金刺盛澄は、源頼朝、木曽義仲の時代に活躍した人です。



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