見て歩く甲斐武田氏の史跡ー長野県塩尻市

桔梗ヶ原の古戦場跡(勘助子育の松)

武田晴信と小笠原長時の戦いは、塩尻峠の戦いが有名ですが、塩尻峠の戦いの3年前、天文14年(1545年)に
塩尻の桔梗ヶ原でも晴信と小笠原長時は戦をしていて、このときも、武田軍の勝利に終わっています。

桔梗ヶ原の古戦場跡は、Mapionに出てくるのですが、塩尻市の観光課の方に問い合わせてみると
その場所は間違いで、大門神社横の耳塚神社がなにか関係しているらしい、
そして、実際の合戦の場は、旧中仙道平出一里塚付近だったろう、ということでした。

以前、地元の人に伺ったときは、耳塚神社は、晴信が戦いの戦死者の耳を切り取って埋めた場所だということでしたが、
神社の案内板には、そんなことは書いてありませんでした。


中仙道平出一里塚は、江戸時代の原型を残し、道の両側に塚が残っていました。
勿論、桔梗ヶ原の戦いは、この一里塚ができる前のことですから、古戦場は、だいたいこの辺りだろうということです。

平出一里塚の松は文久3年(1863年ー幕末)に枯れてしまって、現在あるのは何代も植え直されたものだそうです。

塩尻市の伝説に、次のような話があります。
小笠原長時と晴信とが合戦したとき、山本勘助は戦場で泣き叫ぶ赤子を発見しました。
その子供を抱きかかえて戦場に突入した勘助ですが、
身体が不自由だったので赤子を持て余し、近くの松の大木の下において、戦場に戻りました。
戦いが終わってその松のところに戻ってみると、松から滴り落ちる露で飢えをしのぎ、赤子は元気だったとのこと。
以来、その松は、『勘助子育の松』とか『平出の乳松』とか呼ばれたそうです。

中仙道が整備されたのは慶長6年(1601年)、桔梗が原の合戦は天文14年(1545年)ですから、
『勘助子育の松』と『平出一里塚』の松とが同じであるかどうかは分からないのですが、
この辺りに、かつて大きな松があったのは事実だと思いたいです。       (07/ 7/24 訪問)

耳塚神社

神社の内部
平出一里塚(住宅の影に隠れた北塚) 平出一里塚(南塚)
風林火山の旗がありました。

(現地案内板より)

塩尻峠の戦い跡[説1](首塚・胴塚)(柿沢区)

天文17年7月19日(1548年)塩尻峠で武田晴信と小笠原長時が激突しました。
晴信は、上田原の戦い(天文17年2月14日)で板垣信方、甘利虎泰を失い、
その結果、諏訪郡代板垣信方の死亡は、諏訪地方の乱れを呼び、晴信組し易しの風潮となりました。

武田側はその劣勢を挽回して小笠原側は武田勢の息の根を止めるべく、激しい戦いとなりました。
しかし、数時間の戦いの後、武田の勝利に終わり、小笠原軍は退却しました。
この戦いがどこであったのかは、塩尻峠とだけしか分かっていません。
塩尻市の柿沢区に、この合戦の後、武田軍が死体を放置して帰ってしまったので、
柿沢の住民が、首と胴をそれぞれ葬ったという伝承があります。
昭和10年、子爵小笠原長生の揮毫を得て、首塚と胴塚が作られました。

塩尻峠の合戦がどこであったのかはっきり分かってはいませんが、
柿沢区には塩尻峠の合戦は、長井坂の合戦だという言い伝えが残っているそうです。
長井坂の合戦跡は、特に看板があるわけでもなく、探して見たものの分かりませんでした。
岡谷市の鳥居平やまびこ公園の正門付近にも『塩尻峠の合戦跡』ではないかという案内板があります。

近くにある道の駅で何人かの人に聞いてみたのですが、結局分からず仕舞いでした。(07/ 6/16 訪問)

首塚

胴塚
子爵小笠原長生の揮毫

大宮八幡宮(武田信玄・旗建ての木のあるところ)

県道63号線を南下していて南内田に来たとき、大宮八幡宮という神社の前を通りかかりました。

八幡宮は源氏の守り神だから、川中島の戦いのとき、きっと信玄がこの地を訪れたいるだろうと思いました。
車を降りて見ると、左の看板があったので、やはり!と思ったのですが、
看板の下の方が読めなかったので、神社のお参りだけで帰ってきました。

後に、教えていただいたことですが、
天文22年(1553年)、武田晴信は、信濃をすでに手中におさめていました。
この年上杉氏との第一次川中島合戦となるのですが、信濃掌握を更に強固にするための旗揚げ時に、
大宮八幡のイチイの木に旗を立てたそうです。
それは、川中島の数ヶ月前とか。  (06/11/11 訪問)

大宮八幡宮の鳥居

 本殿

   
私見ですが、天文19年(1550年)、晴信が小笠原長時の林城を攻め落としたとき、
大宮八幡を陣所としてのではないかと思います。



甲斐武田氏の史跡・目次][年表