見て歩く甲斐武田氏の史跡ー長野県諏訪市(2−1)

千野氏の居館だったといわれる金子城跡(諏訪市大字中洲)

戦国時代の城の多くは、山頂を要害城とし、居館を麓に建てるというのが多いのですが、
ここ金子城は、諏訪地方で平地に建てられた最初の平城だそうです。
この地で、宮川が大きく湾曲しているので、一方を人口の水路で囲めば、防御できる城となります。
茅野市という名前の由来は、諏訪家の名族千野氏の名前からきているのですが、千野氏はここから遠くない
大熊に大熊城を持っていました。
金子城は、千野氏の居館であったと言われています。


(現地案内板より)

天正12年(1584年)、
諏訪頼忠はこの地に築城して
茶臼山城から移ってきましたが、
関東に移封となりました。
その間、秀吉の家臣、日野根高吉が、
諏訪湖畔に新高島城を建設することとなり
金子城を破却され、建築資材は宮川を
船で諏訪湖まで 運ばれました。

最終的には、諏訪頼忠・頼水親子は
諏訪の地に戻り
高島藩として高島城を居城としました。
               (09/ 2/28訪問)
北西方向に向いて撮った宮川橋

左:
右:
宮川橋から北西方向に向いた宮川の左側
宮川橋から北西方向に向いた宮川の右側
金子城跡の立て札は右の写真のアパートの向こうなのですが、
宮川で囲まれてた全体が、金子城関連の施設だったと思われます。

宮川橋を渡って北西に進むと右手の角に金子城跡の矢印があります。
矢印方向に進むと金子城跡の立て札がありますが、遺構らしきものは何もありません。
左の写真で左に進むと宮川の堤防に出ます。
城郭の見取り図は、日焼けして読み取れません。

永久寺左隣りの御頭御社宮司社 金子城跡とは
宮川の対岸にある永久寺

『梶の葉』
諏訪氏の家紋です。
『丸に三つ盛り亀甲に花菱』
千野氏の家紋と思われます。

武田晴信の諏訪侵攻で落城した武居城(中洲)

元徳2年(1330)、諏訪五郎時重が武居に居館を構え(現保科畑)、その要害城として武居城が築城されました。
時重は、執権北条高時の娘を娶り、鎌倉幕府滅亡に際して高時とともに鎌倉で自害したとされています。
文明15年(1483)、当時分裂していた諏訪氏は、惣領家と大祝家との間で内部抗争を起こし、
大祝家諏訪継満は諏訪大社前宮の要害城・干沢城に籠りましたが敗れて高遠に逃れました。
これを「文明の内訌」と呼びます。
翌年、継満は再起を図って「武居城」を本陣として惣領家が占有する干沢城と相対しましたが、
結果、継満は惣領家諏訪頼満と和議を結びました。

天文11年(1542)甲斐の武田晴信が諏訪へ侵攻した際には、諏訪頼重の家臣篠原弥三郎が城代を務めていたとされています。
諏訪惣領家滅亡後は、諏訪氏一族の諏訪頼量(大祝家一族)が城主となりましたが、
天正18年(1582)に諏訪頼忠(諏訪頼重の従兄弟)が旧領を回復し、武居城は廃城となったと伝えられています。

武居城へは、県道16号線を茅野から諏訪方向に向かう途中、
神長官守矢資料館を過ぎたところに橋があるので、これを渡りすぐ左折して登っていきます。
右手に『武居城跡森林公園』の案内板がありますが、車を停める場所がなく、苦労します。      (14/ 7/ 9訪問)

(現地案内板より 以下も同じです。)



この看板からひたすら300m登ります。

かなり険しい登りです。
案内板より

主廓
主廓から見る茅野の町 背負い曳き道にある空堀(?)

武居城主の居館跡・保科畑(中洲)

武居畑の南半分は保科畑と呼ばれていて、かつての武居城・城主の居館があったと伝承されています。
                                               (14/ 8/ 2訪問)

武居畑の南側にある保科畑

武居畑から見た武居城

縄文式遺跡があった武居畑
武居畑から見た諏訪湖 武居畑から見た高島城

武居畑先端から見た茅野・諏訪



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