見て歩く甲斐武田氏の史跡ー長野県諏訪市(2−2)

諏訪大社上社本宮(中洲宮山1)

上社本宮は、織田信忠によって天正10年に灰燼と帰しました。
隣接する法華寺は類焼を免れたので、後に諏訪に入った織田信長の本陣となり、
信長は13日間法華寺に逗留しました。
       (13/ 2/ 8 訪問)

参道

神楽殿
幣拝殿 一之御柱

織田信長が明智光秀を愚弄したと云われる鷲峰山法華寺(中洲神宮寺856)

 (現地案内板より 以下も同じです。)
 
諏訪大社上社に向かって左側から上って行くと、
立派な山門のある法華寺があります。
更に進むと神宮寺跡があります。
法華寺は諏訪氏の家紋があるので、
諏訪家縁のお寺なのでしょうが、
天正10年、織田信長の子信忠が信州に攻め込んだとき、
宿舎としたところです。
その後、信長自身もここを本営として滞陣し、
武田攻めの論功行賞を行い、
徳川家康も馳せ参じたと言われています。
信長と明智光秀の仲が決定的になった叱責事件は、
法華寺でのことです。(『信長公記』には記述がありません。)
因みに信忠は、諏訪大社上社を焼き払ったと言われていますが、
すぐ隣にある法華寺は焼かれることはありませんでした。
                 (13/ 2/ 8 訪問)
 

法華寺山門

法華寺本堂
諏訪氏の家紋がありました。
吉良上野介の孫義周の墓

法華寺本堂の裏側に、吉良上野介の孫にして吉良家跡取りであった義周のお墓があります。
赤穂浪士の討ち入りで怪我を負った義周は、諏訪家にお預けの身となり、若くして高島城南丸で亡くなりました。
お墓の傍には、三河吉良の人々による、義周を悼む看板があります。


上社神宮寺跡にある信玄公墓碑(中洲神宮寺)

諏訪大社上社に向かって左側から上っていった裏山という感じの場所に、上社神宮寺跡があります。
現在では、建築物はなく、『信玄公墓碑』という案内に従って上っていくと、
確かに『信玄公墓碑』があるのですが、それがどういうものであるかの説明はありませんでした。
神宮寺は今はありませんが、地名としては残っています。  (2007/ 6/24訪問)

神宮寺跡 武田信玄公墓碑



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