7年間善光寺御本尊が滞在した松尾山善光寺(湖南4890−イ) |
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善光寺のご本尊が、飯田市にある元善光寺から長野善光寺に移る前
7年間諏訪善光寺にとどまったとの言い伝えがあります。
諏訪善光寺にも本田善光の紋・立葵があります。
諏訪善光寺は小高い丘にあり、茅野市、諏訪市、諏訪湖などの
パノラマが一望できます。 (14/ 8/11 訪問)
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松尾山の山門
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本堂 |
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本堂を背に山門越しに茅野の町を見る。 |
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境内にある松尾神社 |
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武田信玄が神事再興した習焼(ならやき)神社(湖南) |
習焼神社は諏訪大社上社の摂社で、紋は諏訪家の梶の葉です。永禄8年(1565)武田信玄が神事再興したと案内板にありました。
この頃、氏子の総意で縁結びの桂を植えたとありましたが、現在の桂の木がその当時のものかどうかは分かりません。
(14/ 8/11 訪問) |
抜粋 |
武田信玄による永禄8年(1565)の神事再興のころ、真志野郷の氏子の総意で、中岡の |
伝統で月の中で結ばれるといわれるカツラ(桂)の雄木雌木を植え夫婦愛の象徴とした。 |
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本殿
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女性の縁結び夫婦桂 |
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向かって左:本殿 右:舞殿
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舞殿
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善光寺から見る習焼神社の木立 |
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木立に巣を作る青鷺 |
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最終的に千野氏に与えられた有賀城(豊田有賀) |
有賀城は、諏訪氏の支族の有賀兄弟が鎌倉時代初期1220年頃に築城したと言われています。
1548年、有賀氏ら西方衆は晴信と争って敗退して追放され、有賀城には原美濃守が入城しました。
その後、諏訪上社大祝代官千野氏は、武田氏に協力的だったので、有賀城は千野氏に与えられ、
関ヶ原の合戦の後、諏訪氏が旧領を復帰した際、千野氏も正式に有賀城に入城しました。
江音寺は千野氏の菩提寺ですが、有賀氏の時代、千野氏の時代の城主の住まいだったと思われます。
有賀城跡は、郭、堅堀、土塁などがよく保存されていて、なかなか見応えがありました。(09/ 5/ 5 訪問) |
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有賀城跡の門付近から撮った江音寺
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二輪草が満開でした。
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千野氏の家紋 |
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有賀城跡の門
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写真よりはずっと険しい東北尾根 |
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東北尾根を上ったところにある主郭
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主郭への虎口 |
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高さ5mの土塁が見事な主郭ー標高925m、広さは、東西約20m、南北約37m。
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主郭の北側にある腰郭
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主郭の南にある堅堀(3本あるはずが2本しか見つかりませんでした。)
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主郭の東側にある堅堀と横堀が交差して地点。
ここから、副郭、三の郭、四の郭、五の郭へと下っていきます。 |
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副郭(後ろに見えるのが、主郭)
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三の郭 |
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四の郭
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五の郭 |
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左は、江音寺の東側に下る階段。
かなり厳しい下り道で枯葉に足をとられ
何度も滑りそうになりました。
江音寺は千野氏の菩提寺だそうですが、
江音寺付近が、
有賀氏、後の城主千野氏の
城主の住まいだったと思われます。
非常に険しい坂を登り降りするのは
かなりたいへんなように思われました。
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江音寺横、県道50号線(有賀峠へ上る道)から撮った有賀城 |
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