見て歩く甲斐武田氏の史跡ー長野県上田市(砥石城)

砥石城(1)

砥石城の築城者、築城年代については分かっていないようですが、
村上義清が葛尾城の支城としていたことは、分かっているようです。

天文17年(1548)、武田晴信は上田原(現在の長野県上田市)で村上義清と対戦し負けました。
2年後の天文19年(1550)、晴信は村上義清と再び攻撃し、義清の砥石城を攻めますが、またも惨敗の憂き目をみました。

その翌年武田家の家臣となっていた真田幸隆は、調略を用いて難攻不落と言われた砥石城を、一日で落としました。

この調略がどのようなものであったか、諸説あるようですが、今のところ次の2説を聞きました。
@村上義清の家臣砥石城代山田国政は、武田信玄の砥石城攻めで籠城し武田軍を打ち破った。
 しかし恩賞の件で矢沢総重との関係が悪くなり、真田の調略にあった矢沢によって討ち取られた。
A真田幸隆の弟が砥石城にいて武田とは敵対していたのですが、幸隆が説得して寝返らせ砥石城攻めに成功した。

その後砥石城は真田幸隆が城代となり、62歳で砥石城で病死するまで幸隆の居館となりました。
連戦連勝といった感のある武田信玄が負けたという砥石城とはどんなところか、大変興味があり、07/ 8/29 見に行きました。

砥石城が4っつのお城からできていることを知ったのは、最近のことです。
砥石城は、枡形城、本城、砥石城、米山城の4城からできていて、『砥石城』で代表されています。
普通山城は住むためのものではなくて、城主は麓の居館に住むことが多かったようですが、
砥石城の4城のうち砥石城は居館にもなっていて、それは珍しいことのようです。

4城全部に行けるのですが、余りに急な坂では、ロープに体を預けて、登り降りするようになっていました。

一つ発見したことは、NHKの大河ドラマでは、真田氏本城は松尾城であるとされていますが、
真田氏本城とは別に松尾城があったということです。
真田の里にはたくさんのお城があって、その中で規模が一番大きいものを『真田氏本城』としているけれど、
史実かどうかははっきりしていないとのことでした。
上田市のホームページで、『真田氏本城』がお勧めスポットに入っていないのは、
その点がはっきりしていないからだろうと思いました。
              (07/08/29 訪問)
標高 789m 比高 160m
諸説あり

(現地案内板より  以下も同じです。)



真田氏本城から見る砥石城(米山城は砥石城の後ろにあって見えない!)

真田氏館から見る砥石城(米山城は砥石城の後ろにあって見えない!)

晴信本陣から見る砥石城(本城、枡形城は、砥石城の後ろにあって見えない!)

砥石城(2)

砥石城へは、陽泰寺のパーキングに車を置かせてもらうのが良いと聞いていたので、
まずは、陽泰寺のパーキングへ向かいました。
       (07/08/29 訪問)

陽泰寺のパーキングに向かう途中の家並み

陽泰寺のパーキングに車を置いて、車道を少し歩くと左手に『砥石城大手門へ』の案内があります。
そこから山道の登りとなり、15分くらいで大手門に出ます。
途中、『水の手』の案内があったのですが、同じ道を戻ることを考えていたので寄らずに進みました。
残念なことに、帰りはここを通らなかったので、NHK大河ドラマ風林火山で
馬場信春が見つけられなかった『砥石城水の手』を、見ることができませんでした。

大手門に向かって右側に本城、枡形城があり、左手に砥石城、米山城があります。
まず、右に進み本城、枡形城を見て、その後大手門まで戻ってから、砥石城、米山城を見て、
大手門には戻らず、下山しました。

 

 
 砥石城大手門

右に進むと本城二の郭

二の郭から主郭へ
左:石垣跡  右:本城跡

今も残る当時の石垣

本城の主郭(ここが4城全体の本丸) 本城と枡形城の間にある空堀跡
枡形城へは、本城から下って登ることになります。

 
    矢に使う真っ直ぐな『矢竹』
砥石城で栽培されていた名残らしい!

枡形城への道はこの写真では急坂に見えませんが、
かなりきつい坂で、ロープに掴まって登り降りしました。


砥石城の最高地点である枡形城の主郭
入り口が枡形になっています。

枡形城の最北端から真田氏本城を見ました。
自信がないけれど、多分そうだと思います。
大手門まで戻って砥石城に向かいました。
かつてここが馬場だったとも聞きました。

砥石城から見る、かなり下にある米山城
登り降りが、とてもきつそうです。
 
    砥石城主郭の敵を防ぐための切崖
かつては、梯子を使って登り降りしていたとか。

山城には珍しい居館にもなっていた砥石城主郭
真田幸隆は、ここで暮らし、病死したという。

砥石城からの、見た目より険しい下り道
ロープに体を預けて、降りる箇所もありました。
こんなにはかかりません。
『米山城5分 砥石城15分』


米山城から見上げる砥石城
米山城主郭ー村上義清公の碑
二の郭、三の郭もはっきり残っていました。

米山城には、馬の背に白米を流して、水に不自由していないと見せかけた白米伝説も残っているそうです。

全部見終わって砥石城の凄さに圧倒されました。この城を攻めるのは、本当に大変そう!
もと来た道を大手門まで戻る気になれず、『米山城10分 砥石城15分』の案内板のあるところから真っ直ぐ下山しました。

砥石城攻めのときの晴信の本陣

晴信が砥石城を攻めたとき、現在の富士見台団地のはずれ、南西の地点を本陣としました。
そして、進軍や退却の合図のための鐘を本陣近くの松に掛けました。
今、三代目の松が植えてあります。

この地点は、砥石城と米山城がとてもよく見えます。
馬に水(実は米)をかけて、馬を洗っているように見せかけたのは効果があったと思いました。
                                        (07/08/29 訪問)


鐘掛けの松(三代目) 左:米山城   右:砥石城



甲斐武田氏の史跡・目次][年表