見て歩く甲斐武田氏の史跡ー長野県上田市真田町

真田氏館跡(本原御屋敷)

真田氏本城は、小高い丘の尾根を利用して建てられたもので戦時のためのもの、真田氏館は、平素生活をするためのものです。
真田氏館は、東西に長い長方形(ちょっと乱暴ですがーー。)でできていて、周囲を土塁で囲まれています。
土塁の長さは、520mあり、ほぼ全てが残っています。

土塁の外側は、堀が巡らされていたと推定されますが、現在も北面は大沢川となっています。
土塁の南面には大手門、北面には搦手門があり、今も両門の石垣が残っています。
現在、大手門と搦手門は車道で繋がっていて、館内を車で通過できます。

車道の西側の西郭はマレットゴルフ場になっていて、芝生が目に沁みるほどでした。
西郭の北西隅は、厩だった名残の10m四方の土塁で囲まれています。
車道の東側の東郭は、真田昌幸が上田城に移るときに勧進したという皇太神社があります。
  (07/ 9/ 1 訪問)

(現地案内板より  以下も同じです。)


標高763mにある大手門
進行方向が真田氏館内です。
搦手門
進行方向が真田氏館内です。

東郭にある皇太神社

車道から見る皇太神社


西面の土塁
厩跡   
西面の土塁から見る砥石城。
真田幸隆は、日々砥石城を眺めて、
何を考えていたのでしょうか。
真田氏本城跡(長5029−3)

真田の里にはいくつも城跡があって、どれが真田氏本城であったか、はっきりしているわけではないようです。
ただ、他の城と比べて規模が大きい城を本城であろうと、推定されてはいます。
NHK大河ドラマ『風林火山』では、真田氏本城を『松尾城』だとしていますが、
松尾城は真田氏本城と推定されている城とは別の城です。
本来なら『本城推定城』とでも呼ばなければならないかもしれないのですが、ここでは『真田氏本城』と呼ぶことにします。

真田氏本城へは車で行けるので、他の山城のように登る必要はありません。楽に見学できるのは嬉しいものです。

真田氏本城は、南北の尾根づたいに北に向かって主郭、二の郭、三の郭でできており、
順に低くなっていて、 三の郭の先端は厳しい崖となっています。主郭の南側には、高さ2mの土塁があって、主郭を守っています。

                                      (07/ 9/ 1 訪問)
標高 890m 比高 150m
諸説あり
(現地案内板より  以下も同じです。)




真田氏本城から砥石城と真田の里を望む。

本城入り口から砥石城を見る。 主郭の南端で、この向こうに
主郭、二の郭、三の郭と続きます。

主郭の南端の土塁(南側から見る。) 主郭(向こうに高さ2mの土塁が)

二の郭から主郭を見る。

三の郭から二の郭、そしてわずかに主郭が見えます。

三の郭(北端を見る。) 下山して真田氏本城を見る。

真田幸隆・昌幸の菩提寺長谷寺(ちょうこくじ)(真田町長4646)

真田幸隆が、群馬県安中市の長源寺より『伝為晃運和尚』を呼び寄せて開山した、真田家の菩提寺。
NHKの大河ドラマ『風林火山』にも開山の経緯がありました。

本堂の裏手に回ると、幸隆夫妻と昌幸のお墓があり、春は、枝垂れ桜がたいへん美しいそうです。

                               (07/ 9/ 1 訪問)  

(現地案内板より)

長谷寺本堂
中央



真田幸隆のお墓
幸隆夫人のお墓
真田昌幸のお墓

真田信綱・昌照の菩提寺信綱寺(しんこうじ)(長8100)

信綱寺は、創建は室町時代ですが、幸隆3男の真田昌幸が
長篠の戦いで討ち死にした長兄・信綱(のぶつな)とその夫人の菩提寺にした寺です。
長篠の戦いで信綱が討ち死にしたのは、信綱が真田家の家督を継いだ翌年のことです。
家臣の白河兄弟は、真田の里に信綱の首を持ち帰りました。
そのとき信綱の首を包んだといわれる血染めの陣羽織や、
信綱が愛用した鎧胴や、昌幸から信綱寺に宛てられた書状などが宝物館に納められています。

勇猛だった信綱の次弟昌輝も、信綱と共に長篠で討ち死にし、ここ信綱寺に眠っています。
                            (07/ 9/ 1 訪問)  

(現地案内板より)

立派な山門(かなり新しいようです。)

石段をあがるとーーー。
本堂
中央



真田信綱のお墓
信綱夫人のお墓
真田昌輝(幸隆次男)のお墓



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