見て歩く甲斐武田氏の史跡ー長野県上田市(3−2)

上田城(二の丸6263番地イ)

上田城は、天正11年(1583)に真田幸隆の子真田昌幸が築城しました。
二度に亘る徳川軍の猛攻にも落ちなかった名城です。
関ヶ原の戦いに参陣する徳川秀忠は、途中上田城を攻めたのですが、落とせず、時間をくい
家康からこっぴどく叱られた話は有名です。

天正11年と言えば、武田家が滅亡して、織田信長も死んだ翌年です。
真田家がいかに生き残るか、難しい局面にあったときですから、上田城築城の意味は大きいです。
昌幸は、上田城で合戦するときのために、工夫をこらしたことが想像できます。
その1つが、今も残る真田井戸。城中から約5km離れた太郎山へ抜ける地下道となっています。

大阪の陣の後、上田城は破却されてしまいました。
上田城城主となった真田信幸は、徳川幕府に気を遣い、破却された上田城を再建することなく
三の丸に屋敷を建てて、妻の小松姫と暮らしました。

その後、真田氏は松代(海津城)に移封され、上田城は仙石氏、松平氏の居城として幕末を迎えます。
その後城主となった仙石氏によって、大改修されました。
現在の上田城は、真田の城というよりは、大改修後のものですが、あちこちに、真田昌幸の築城技術が残っています。
                                     
    (07/ 9/15 訪問)
上田城は詳しくは見てなかったのですが、やっと念願かなって二度目の訪問ができました。
雨の中、あまりゆっくり出来なかったのですが、案内板を読みながら色々学ぶことができました。
                                            (21/ 7/ 9 訪問)

(現地案内板より 以下も同じです。)



二の丸橋から見下ろすかつての電車道 二の丸橋



復元された東虎口櫓門


 
南櫓    東虎口櫓門

   直径3mの真田石

  真田神社


本丸

本丸堀

真田井戸


初期の城郭が残っている西櫓

尼ヶ淵から見上げる西櫓
 
西櫓の前にある真田信繁の像






二の丸北虎口 石製樋の出口


 
本丸土塁の隅おとし   手堀りの堀と土塁

本丸土塁の墨おとしは、北東の方向を『鬼門除け』として切り込んだものです。
真田昌幸による築城の、特徴と言えるそうです。



尼ヶ淵の崖




尼ヶ淵から臨む上田城

上田城の歴代藩主の居館跡(大手1−4−32)

かつての城跡や陣屋跡が学校になっていることは多いが、
ここ『真田藩主居館跡』は、上田高校になっています。
史跡として残っているのは、屋敷門と堀跡だけですが、
それでも当時を思わせる佇まいがあって、なかなかのものです。
                      (20/ 7/ 9 訪問)


(現地案内板より 以下も同じです。)





現在上田市立清明小学校になっている
上田城三之丸中屋敷(御作事)跡



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