見て歩く甲斐武田氏の史跡ー長野県上田市 上田原の古戦場

上田原古戦場の碑

天文17年(1548)武田晴信と村上義清は、村上軍の本拠地上田原から下之条付近で激突しました。
それまで全戦全勝を誇っていた武田軍は、一敗地にまみれました。
双方、重臣を失う結果となりましたが、この戦いは村上軍の勝利でした。

2007年のNHK大河ドラマ『風林火山』放映中ということもあって、
武田の史跡ではあちこちに『風林火山』の旗が立ててあります。
ここ上田原では、『村上軍』の旗もたくさん見受けられるので、村上義清はこの地の英雄なんだなと思いました。
因みに丸に上の文字は、村上義清の家紋です。
上田市の博物館で、村上軍の本陣は天白山だったとありました。
天白山に登ってみたのですが、そこは『風林火山』の旗一色。『村上軍』の旗はありませんでした。
                                 (07/ 9/10 訪問)

(現地案内板より)

石久摩神社の境内に『上田原古戦場』の碑があります。

左の写真は、石久摩神社の裏手、
田んぼ道にある、無名戦士のお墓。
今もしっかり残っています。

更に
下の2枚の写真は、
石久摩神社の裏左手にある『信玄道』。
元々あった道なのですが、
武田軍が進攻してきた道なので
『信玄道』と呼ばれているそうです。
無名戦士の墓

『信玄道』晴信が上田原へ進軍した道

雨宮刑部(村上義清の重臣)のお墓

 
 
   雨宮刑部のお墓
   無名戦士のお墓


上田原の古戦場の碑から徒歩数分にある観音寺。
ここは、上田原の合戦で亡くなった人たちを
弔っているとのことでしたが、
境内にそれらしきものは見当たりませんでした。

武田軍が、大打撃を受けた上田原の合戦。
しかし、村上軍が受けた打撃も軽くはありません。
近くに村上義清の重臣雨宮刑部のお墓と
無名戦士のお墓がありました。

武田軍の主の戦死者は、板垣信方、甘利虎泰、
初鹿根伝右衛門、
村上軍の主な戦死者は、屋代源五基綱、
小島権兵衛、雨宮刑部等です。   (07/ 9/10 訪問)
観音寺

村上義清の本陣須々貴城

上田原を一望できる天白山に、かつて村上義清の砦がありました。
天白山から、上田原を一望できます。
村上義清は、上田原の合戦で天白山を本陣としました。
下の写真は、板垣信方のお墓付近から撮ったものですが、頂上にある、須々貴神社がよく見えます。

須々貴神社までは、登山道を登るか600段弱の険しい階段を登るかしなければなりません。
階段を登ってみたのですが、下を見ると足がすくむ怖さです。
やっと尾根らしきところまで登ると、右の階段上に須々貴神社、左の頂上に赤い風林火山の旗。
両方に登ってみましたが、左側の頂上からの見晴らしの方がずっと良いので、本陣はこちらだろうと思いました。

因みに武田晴信は、大門峠、砂原峠を越えて上田原に近づき、倉升山の麓、御陣ヶ入畑に陣を敷きました。

御陣ヶ入畑から晴信が進軍した道は、昔からあったものですが、『信玄道』と呼ばれています。
                                 (07/ 9/10 訪問)

板垣信方のお墓付近から見た天白山

登山道の入口は
すぐに分かりました。

実物は、足がすくむ怖さです。
須々貴神社(須々貴城・下の城)
頂上に小さな祠が

村上本陣からの景色。ここが、須々貴城・上の城にあたります。
左に千曲川、真ん中やや右のグラウンドの向こうに上田原古戦場の碑があります。

板垣信方のお墓

板垣信方は、武田家譜代の家臣で、武田信玄の守役でした。
ここ上田原の合戦で討ち死にしたのですが、討ち死にした場所に案内板があります。
その案内板の近くに板垣信方のお墓があります。
鳥居があってその奥が板垣信方のお墓となっています。
信方はヘビースモーカーだったそうで、墓前には巻きタバコがたくさん供えてありました。
                                     (07/ 9/10 訪問)

(現地案内板より)

板垣神社(この奥にお墓が) 板垣信方のお墓

千曲バス・バス停下之条近くに
『板垣信方討ち死の地』がありました。

ここは板垣神社から程近い場所です。

板垣神社から、村上義清の本陣があった
天白山が良く見えます。




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