見て歩く甲斐武田氏の史跡ー長野県上田市(5)

信玄の願文が残る生島足島神社(下之郷中池)

生島足島神社の主祭神は、生島の大神と足島の大神の2柱です。
有名な神社ですが、思ったより小ぶりで、しかし初詣の人の多さから人気の高い神社だと思われます。

第四次川中島合戦に際し、信玄自らが必勝の願文を書き、
また家臣団には、決して信玄を裏切らないという起請文を書かせ、奉納したことで有名です。
現在もその願文、起請文は現存しており、国の重要文化財に指定されています。


2015年初詣に行ったとき願文・起請文は公開されていましたが、これらは本物ではなく精密に
作られた本物そっくりのコピーです。

家臣団の起請文に弟の武田信簾、甥の武田信豊、真田昌幸、真田信之、小山田信茂等々等の
よく知られた名前が見えましたが、所謂重臣と言われる人達のものがありません。

裏切る可能性が皆無の家臣には、起請文を書かせる必要がなかったかと勝手に思いました。

境内には、信玄が勧進した諏訪神社があります。
生島足島神社が、信玄との縁が深い神社の筆頭にも挙げられるのは、このことに由来するのかも
しれません。生島足島神社は『上の宮』、諏訪神社は『下の宮』と呼ばれています。
「上の宮にはご主人が、下の宮には奥さんが住んでいる。」と教えてくださる方がありました。

また境内には、真田信之の寄進によるという神楽殿も残っています。   (2015/ 1/ 2 訪問)

(現地案内板より 以下も同じです。)

武田信玄自筆の願文
古文書の撮影は禁止になっています。
これは、境内にあったポスターを写真に撮ったものです。


生島足島神社の鳥居

門には諏訪家の梶の葉の紋があります。

生島足島神社は神池に囲まれています。

橋を渡ると本殿です。

安土桃山時代の様式を伝える本殿
本殿の上部

由来の説明はありませんでした。

真田信之の寄進によるという神楽殿 下の宮(諏訪神社)

平氏の将軍が鬼女を退治したという伝説が残る将軍塚(別所温泉)

別所温泉の中心部に大きな駐車場があって、
北向観音にお参りができるようになっています。
北向観音の道を挟んだところに『将軍塚』があります。
案内板を読むと、将軍というのは平維茂という人で、
鬼女を退治したという言い伝えがあるとのこと。
案内板を読んでいたらバケツをひっくり返したような
大雨がふり始めたので、北向観音へのお参りは
諦めて、帰途につきました。  (21/ 7/ 9)

(現地案内板より)


(現地でいただいたパンフレットより)

上田市内の常田・海野通り

上田市内を車で走っていて、『常田』という標識をかなり広範囲で見ました。
きっと、ここが真田幸隆の弟『常田隆永』の所領地なのかと思いました。
『常田の戦い』もこの地であったことなのかとも思いました。
上田市内を折れ曲がりながら進んでいる北国街道には、『海野通り』もありました。

信玄の次男竜芳が名跡を継いだ『海野氏』の所領地は、現在の東御市だとは分かっていますが、
真田幸隆、常田隆永が海野氏の出であるなら、上田市常田の近くに『海野通り』があるのは、
常田と海野の関係に関係するように思えました。

少し分かってきたことですが、真田昌幸が上田城を建てたとき、海野から町を上田に移転させたということらしいです。
その当時の名残として、『海野町』『海野通り』という地名が残っているとかーーー。   (07/ 9/11 訪問)

北国街道沿いにある科野大宮社(上常田)

北国街道沿いの旧道の雰囲気漂う家並み(下常田)

下常田を過ぎて、
北国街道が海野通りに入ると、
かなりの繁華街になります。

『海野町』は、
あまり広範囲とは見えませんでした。

交差点には『海野町』の標識がありました。



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