原大隈守胤歳は、川中島の合戦で、謙信が信玄めがけて一騎打ちを仕掛けたとき、槍で信玄を守ったと
言われています。川中島の八幡原には、謙信を逃がしたことを悔しがった原胤歳が突き刺したという
『執念の石』が残っています。
原胤歳は、鬼美濃として名を馳せた『原美濃守虎胤』と同系だという説と、
同じ武田家臣の『原加賀守昌俊、原隼人佑昌胤(はやとのすけまさたね)』父子と同系であるという説と
両説あるようです。
八幡原の激戦の後の大隅守の動向についてのお話です。
大隅守は、川中島の軍功によって、会村(あいむら・長野市篠ノ井会)と原村(同長野市南・北原)を
貰い、会村には原大隈のお墓もあるとかーーー。
長野県諏訪郡原村が、原大隅守が褒章として貰った土地だという説もあるとかーーーー。
武田家滅亡の後、八王子千人同心として徳川家に仕えたとかーーー。
私の考えでは、会村、原村を貰った後、武田家が滅亡し、八王子千人同心になったとでは?
八王子千人同心となった原胤歳は、現在の相模原市東橋本(当時は小山村)に住み着きました。
その末裔は、幕末の頃千人同心を何人かを引き連れて蝦夷地の開墾にも行ったそうです。
相模原の台地は水の便が悪いので、耕作に不適な土地でした。
幕末の頃、原胤歳の末裔の豪農原清兵衛光保は、この水の利の悪い土地に入植して開墾する人を募り、新田
開発に尽力しました。新田開発は、1843年に着手され、13年の間に49名が入植して200ha余りが開拓されました。
相模原市には、今も『清兵衛新田』→『清新』という地名が残っています。
ところで、八王子千人同心としての原家の系図を見ると、清兵衛光保という名前は出てきません。多分、名主としての
原家は分家ではなかったかと思います。東橋本の原家を見に行ったのですが、現に原家は2軒ありました。
原清兵衛家は、大きな長屋門は残っているものの、現在家族がお住まいの家は、現代的は住宅になっていました。
道を隔てたところにあるもう一方の原家は、立派な門と美しいお庭が少し見えるだけですが、なかなかのお家のように
見えました。あと注目したのが、原清兵衛家に向かって右側にある広大な『小山家』。
江戸時代は、この辺りは小山村だったとのことなので、由緒あるお家かと思っています。
原清兵衛家から境川まで歩いてみたのですが、ざっと400mくらいです。比較的水の便が良いところに住居を
構えたのだな!と思いました。
ここに書いたものは、推測の域を出ないものもあるので、ご存知の方からの情報をお待ちしています。
(07/12/ 5 訪問) |
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原清兵衛家の長屋門と
その後ろの近代住宅
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家屋の側から見た長屋門 |
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長屋門全景
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| もう1軒の原家 |
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お隣の小山家の長屋門 |
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