松本城と熊本城について


松本市観光案内所センター長 柏澤 由紀一さんからいただいたお返事です。

 まず、松本城主:石川数正・康長親子と熊本城主:加藤清正の動きを見てみましょう。

石川数正・康長親子
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1590 松本 入府
1590 新城の建築に着手
159394 大天守完成
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加藤清正
1588 隈本 入府
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1599 新城の建築に着手
1600年頃 大天守完成
1607 新城が完成 隈本を熊本に改める

 加藤清正は、薩摩の島津家ににらみをきかすため、豊臣秀吉の名により、肥後隈本に入りました。1588年のことです。

 豊臣秀吉は、1590年に小田原の北条氏を滅ぼして、天下統一を成し遂げましたが、その直後に行ったのが大規模な
国替えです。

 三河遠江、駿河を本拠としていた徳川家康は、関八州に国替えをさせられました。その家康を小牧長久手の戦いの後
に裏切って、秀吉についた石川数正・康長親子に与えられたのが松本でした。松本にやってくるやいなや松本城の築城
に着手しました。驚くべきことです。

 加藤清正は、新しい城を築き始めるまで、約10年の歳月を要しています。新しい領地の実情、生産力(検地)の調査、
家臣への領地の割り振りなど、やるべきことが沢山あるからです。徳川家康が江戸城の天守閣を築くのも関ヶ原の戦い
1600年)の後のことです。

 ところが松本城の場合は、すぐに工事が始まりした。そして、一年後には、数正は、秀吉の命で京都へ上り、康長は、
秀吉の朝鮮出兵に動員されて、佐賀の名護屋城へ行っています。その間も松本城の築城は進められました。加藤清正
はじめ有力大名は朝鮮半島に渡っていて、城づくりどころではありません。

 松本城天守はにもかかわらず、建築が進められました。職人は全国から集められたと言われています。その証拠と
いわれるのが大天守は京尺(一間が1m97cm)で作られているのに対して、乾小天守は関東尺(一間が1m80cm)で
作られています。

 何故か?それは、豊臣秀吉が関東に封じ込めた徳川家康を監視・包囲するための「要の城」として松本城を築かせた
と考えられています。そして、そこに徳川の戦術を一番知る石川数正・康長親子を配置したのです。

 ご質問の答えですが、松本城の天守閣の方が早く完成しています。秀吉の部下の城は、白と黒のコントラストが特徴
ですから、熊本城とよく似ていますね。大坂城も白と黒のお城で、秀吉は、黒い部分に金箔を貼って、権威と財力を誇示
したのです。

 松本城は、秀吉の朝鮮出兵=文禄慶長の役の休戦中に完成しています。言い伝えによれば、加藤清正が城見舞い
(新築祝い)に訪れたとされています。その際に、お祝いのお返しとして、二頭の馬が引き出され、好きな方を持って行
くように清正は言われました。清正は考えます。良い方を選べば、駄馬(だめな馬)を残したと言われるし、駄馬を持っ
て行けば、見る目がないと言われるだろう、だったら2頭もらって行こうとなったそうです。その時、清正は本丸の枝垂
れ桜に馬を繋いだことから、その桜は「駒つなぎの桜」と呼ばれ、現在も何代目かの「駒つなぎの桜」が春には、あでや
かに花を咲かせます。

 お祝いの席で、「はなむけ」という言葉が使われますが、馬は古来から輸送手段であり、戦場でも欠かせない存在で
あったことから、馬は最高のプレゼントで、馬の鼻を新しい所有者に向けることから「はなむけ」という言葉が誕生した
と言われています。

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