見て歩く日本の城と史跡ー岐阜県不破郡関ヶ原町(1)

関ヶ原古戦場東軍陣跡等(関ヶ原)

日本国内での最大の合戦『関ヶ原の合戦』のあった場所に行きました。
以前も行ったことはあったのですが、詳しくは覚えていません。
合戦のあった場所、各武将の陣跡などよく保存されていて、嬉しく思いました。
合戦のあった場所が広いので、全ての陣跡を見ることはできませんでしたが、
それでも、各陣跡の案内板から学ぶことが多かったです。
石田三成陣跡と大谷吉継陣跡の登り口に、観光客が多かったのは当然と言えば当然でしょうか。。

この頁の内容は次の通りです。               (19/ 9/17 訪問)

徳川家康最初陣 田中義政陣跡 松平忠吉
井伊直政陣跡
本多忠勝陣跡 藤堂高虎
京極高知陣跡
開戦地 徳川家康最後陣 決戦地 東首塚

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(現地案内板より 以下も同じです。)




家康がテーブルに使った岩?





甲斐墓 田中義政陣所古址






右上: 『東首塚の案内の向こうが、松平忠吉・井伊直政陣跡
右下: 茨原松平忠吉・井伊直政陣所古址

   松平忠吉
徳川家康の四男で、関ヶ原が初陣。舅の井伊直政の後見ののもと、福島正則と先陣を争った。
退却する島津隊と激闘を繰り広げ、島津豊久を打ち取った。






十九女池西 本多忠勝陣所古址






柴井 藤堂高虎・京極高知陣所古址







史跡 関ヶ原古戦場 開戦地







史跡 関ヶ原古戦場 徳川家康最後陣


徳川家康が首実検をした場所

   御霊神社由緒
 慶長5年9月15日(1600年)東軍の将徳川家康と西軍の将石田
三成の将兵15万が運命をかけて関ヶ原一帯において展開された所謂
関ヶ原合戦であります。
 この合戦で幾千、幾万と言われる将兵がこの地に屍をさらし、中には
子孫も死に絶え慰霊すら行われていない将兵が数多くあると思われ
ます。
 この慰霊を祀るため、広く有志の浄財を呼びかけ幸い本年は関ヶ原
合戦380年を機として、神社建立のはこびとなった次第であります。
 毎年9月14日に慰霊祭を厳修します。
昭和55年4月 関ヶ原振興会  




決戦地


国史跡関ヶ原古戦場 決戦地 史跡関ヶ原古戦場 決戦地








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