見て歩く日本の城と史跡ー三重県度会郡

北畠(織田)信雄が天守閣を築いた田丸城(玉城町田丸字城郭)

織田信長の次男信雄は、信長の北伊勢侵攻に伴い、北畠氏の婿養子となり、最初は現松坂市にあった
北畠氏の城・大河内城に入りました。その後、田丸城に居を移し、北畠氏時代のものとは大きく違う
城に、田丸城を改築しました。織田家の財力を示すものです。

田丸城の目玉は、私にとって織田信雄が作ったという天守台跡です。

田丸城は、江戸時代は、紀州藩の付け家老久野氏の城だという知識があったので、
余り規模の大きい城を想像していなかったのですが、思った以上に立派なお城でした。
久野氏は、和歌山市内に居住して家老としての任務を果たし、親族が田丸城城代を勤めていたようです。

藤堂高虎も田丸城の城主であったことがあると知って、
場合によっては藤堂氏が紀州藩の付け家老になった可能性もあったかな?とふと思いました。
城としては、御三家の一つ尾張藩の付け家老成瀬氏の犬山城を比較してしまいました。
夕暮れになってしまって日没を気にしながらの訪問だったので、写真に不細工なものが多いです。
三の丸奥書院を見ずに帰ったのが、悔やまれます。       (18/06/27 訪問)

玉 丸 城 略 史
 田丸(玉丸)城は延元元年(1336)後醍醐天皇が吉野に還幸のとき北畠親房がこれに呼応挙兵するために南勢の拠点として築いたものである。
 神領を領有するため南北両朝はしばしばこの城を中心に争奪戦をくりかえしたが合一の後は北畠氏一族がここに居城。玉丸御所となった。
 室町末期、織田信長が伊勢攻略の時、次男信雄を伊勢国士北畠氏を養子嗣として和睦、南勢5郡を制し、天正3年(1575)冬、信雄は大河内城
から田丸城に移った。この時、田丸城を大修築し三層天守閣を築き現在の規模を整えたが、火災により天守を焼失、信雄は松ケ島城に移った。 
以後、稲葉氏、藤堂氏、久野氏がこれを領したが、明治維新、廃城により御料林(国有地)に編入。
 当城はいわゆる平山城の初期のものの一つであり、昭和28年三重県文化財史跡に指定され、石塁など昔日の面影を今に絶えることなく
現代につながる貴重な城跡である。                          平成8年3月   玉城町  
(現地案内板より  以下も同じです。)


もう一つの田丸城絵図は、こちら

田丸の町並み
 田丸の町は、延元元年(1336)南朝の拠点として兵馬が駐屯するようになって以来、
城下町となり、天正3年(1575)、織田信雄が天守を掲げて城下町を整え、江戸時代
には城下町と同時に参宮詣での客でにぎわう宿場町ともなりました。
 幕末にははたごが多く存在したことが、古文書に記録されています。
 現在、板屋町、萱町、勝田町には比較的町並みが残っています。

 
大手門橋から続紀州街道(城の訪問後に撮影)

 
大手門橋(城の訪問後に撮影)

 
撮影した外堀(城の訪問後に撮影)


左上が玉城中学校です。


富士見門(長屋門)
玉城町指定有形文化財         指定年月日平成6年12月8日
 田丸城は南北朝時代に築城された平城で南勢地方隋一の古城である。戦国時代幾多の遍歴を経て築城以来
六百数十年の歴史を姫明治維新により廃城となった。廃城当時(明治4年)城内の多tr物は入札によりすべて取
りはらわれることとなった。城内には8ヶ所の門があった。その内三之丸(現在の玉城中学校校庭付近)には冠門
(御成門)と富士見門があった。御成門は三之丸御殿へ、富士見門は三之丸から二之丸富士見台に向かう門で
あった。この富士見門(長屋門)は明治初年、宮古の乙部氏邸に移されたものを昭和59年3月、町がこれを譲り
受け、現在地に移築復元したものである。この両側には長屋作りの侍溜があったが乙部氏邸に移築の際、向
かって右の部分が取り除かれ左の侍溜が納屋(間口3間半)として移築され保有されていたものである。
この城門は江戸中期のもので、往時の原形をとどめた現存する唯一の建造物で、田丸城の歴史を物語る貴重な
郷土の文化財として永く保存しようというものである。
平成8年3月                   玉城町

江戸中期の富士見門

 

田丸城本丸虎口について
 虎口とは城内の各郭への出入り口のことである。
この場所は城の攻守の要となるので、石垣を築き
通路を屈曲させるなど侵入する敵に対する防御の
ため、さまざまな工夫をこらしている。
 ここから続く通路は平成14年度田丸城遊歩道
整備工事に伴う発掘調査で確認されたものであ
る。石垣、門や建物の礎石、石組の側溝と○○
あり、出土した瓦や土師器片などから江戸時代の
ものであると考えられる。
 これらのうち、礎石建物や石垣は、左の宝暦年
間(1751〜1764)の古図と一致している。
平成15年3月   玉城町


正面は天守台

本丸虎口と門
 ここは、田丸城の本丸への入口の一つです。「虎口
(小口)」と呼ばれる、道を折り曲げ敵の侵入をはばむは
たらきをする、城にとって重要な施設です。
 平成15年度の発掘調査では、門の礎石や石段など、宝
暦年間(18世紀中頃)をはさんで大きく2時期に分かれる
遺構が見つかりました。門は17世紀には建てられていたよ
うで、間口約6.2m、奥行き約2.6mの大きさがあります。
 遊歩道の整備にあたって、宝暦年間より古いと見られる
遺構については切り石を、それ以降と見られる以降につい
ては自然石を用いて表示しています。
平成16年       玉城町


 
北の丸跡   北の丸から本丸へ

 
本丸へ

   
 
右奥に天守台    織田信雄による天守台

 
 
 
 
 
 
 
 天守台から西方向

  天守台から南西方向 
 
 天守台から北方向

  天守台から南方向(二の丸へ)
 
 奥が三の丸

   
 
 
 
 
二の丸、本丸、北の丸の下を回って、戻ることにしました。

 
 
 
 
 北の丸下の空掘   天守台から見えた階段

これでお城見学は終了

 
 日が暮れてからお城の周囲を回りました。    城山稲荷神社

玉城町郷土資料館北側に再移築された三の丸奥書院



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