三増合戦の胴塚・首塚(田代) |
県道65号線を津久井方向に進み、三増の交差点で西に向かい左折する道が『三増合戦みち』です。
三増合戦場の碑を通り過ぎて、三叉路に突き当たり、左に曲がったすぐに『胴塚』の案内板があります。 |
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多くの戦死者を出してこの戦いで、
首を切られた胴体は、道からはかなり下の
志田沢右岸脇に埋められて、
塚を築いてしるしとしたそうです。
先ほどの三叉路を右に曲がったすぐのところ
左側に、『首塚』があります。
首塚には不動明王が祀ってあります。
相模原市相模湖町寸沢嵐に
首洗い池と首塚があります。
武田軍は、安全なところまで戻り、
重要な首実検は、寸沢嵐で行ったと思われます。
(09/ 5/21 訪問) |
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胴 塚 |
永禄12年(1569)10月当町三増の原で行われた「三増合戦」は、甲州の武田・ |
小田原の北条両軍が力をつくしての戦いだったようで、ともに多くの戦死者が出た。 |
そのおり討ち取られた首級は、ここから150mほど上手の土手の上に葬ら |
れ「首塚」としてまつられているが、首級を除いた遺骸は、すぐ下の志田沢の右岸わき |
に埋葬され、塚を築いてそのしるしとした。 |
この地では、それを「胴塚」と呼び、三増合戦ゆかりのひとつとして今に伝えている。 |
平成7年3月 |
愛川町教育委員会 |
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『胴塚』の案内板 |
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上から覗き込んだ志田沢
(胴塚は見えません。)
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道より高いところにある『首塚』
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不動明王が祀ってあります。 |
戦死者は、北条方3269人、武田方900人だそうです。 |
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田代城跡(田代ー現愛川中学校) |
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田代城は室町時代の山城で、
戦国時代には北条氏幕下の内藤下野守秀勝と
三郎兵衛秀行がが在城しました。
この内藤氏は津久井城に在城した
内藤氏と親戚であったとのことです。
中津川渓谷に守られた要害の地にありますが、
三増合戦のおり、武田軍に攻められて
落城しました。
現在は、城跡は愛川中学となっており、
遺構なども殆ど見られません。(09/ 5/21 訪問) |
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田代城の案内板ー後ろは愛川中学のグラウンド
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愛川中学の向こうの田代城狼煙台
(259.2m) |
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田代城跡は、今は愛川中学です。
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城主の住居だったと言われる愛川中学の西側の土地 |
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中学校の裏にある八幡社 |
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田代城狼煙台(田代) |
田代城は、中津川渓谷に沿った、城としては低いところにあります。
田代城の北側にある富士居山が、狼煙台ネットワークとして機能していたことは、十分考えられます。
(09/
5/21 訪問) |
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左: |
首塚付近から見た富士居山 |
右: |
富士居山の裾野は茶畑になっています。
森のあたりが田代城(愛川中)のようですが、建物は見えません。 |
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富士居山 標高:252.9m |
左: |
富士居山への登山途中 |
右: |
富士居山の頂上で、すが、遺構らしきものはありません。
山頂は30坪ほどで、大峰まで2.9kmのハイキング・コースとなっています。
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