見て歩く日本の城と史跡ー神奈川県相模原市緑区(1)

北条氏の狼煙台ネットワーク津久井城(津久井町太井)

津久井城は、津久井町国道20号線沿いにあります。典型的な戦国時代の山城です。
花の苑地の駐車場に車を置いて、登ってみました。
津久井城は要害城と城主の居館に分かれていて、居館のあった根小屋は、もちろん低い生活しやすい場所に
あります。北条氏照が築城した八王子城ほど規模が大きくないにしても、八王子城を思わせる城構えです。

戦国時代には、北条氏の家臣となった内藤氏の居城でしたが、
武田信玄の北条攻めの折、武田勢は津久井城を取り囲み、内藤氏が援軍に出るのを阻止しました。

山城に篭城するとき、食料と同様大切なのが水ですが、城山の飯縄曲輪下には宝ヶ池という池があって、今も水を
湛えています。宝ヶ池の水が白濁しているのは、米を砥いだからだと言われていましたが、
今も変わらず白濁しているので、何か他にわけがあるのでしょう。
津久井城は、他にも井戸の跡があるそうで、水に不自由ない難攻不落の城だったことが伺えます。眼下に城山ダム湖
と国道20号線ができてしまった現在ではよく分かりにくいのですが、相模川に守られて要害の地だったのでしょう。

津久井城最後の城主は、内藤景豊とも内藤綱秀とも言われていますが、
いずれにしても豊臣秀吉の小田原攻めのときに落城し、廃城となって今日に至っています。

今回地図のチェックが不十分で、本城曲輪、太鼓曲輪へは行かなかったので、次回はぜひ行きたいと思っています。
                                          (08/ 2/23)訪問


津久井城全景(根小屋地区は、城山の向う側)
相模原市橋本方面より城山ダムに向かう。(城山ダムは、目と鼻の先!)
飯縄曲輪下にある大ケヤキがよく見えます。


飯縄曲輪
花の苑地から登った頂上付近
左:鷹射場 右:飯縄曲輪(頂上)

鷹射場に続く尾根
尾根道の両脇は掘切(空堀)
鷹射場に続く尾根

相模川を望む鷹射場
道標まで戻って頂上方向に進んだ
ところにある白濁した宝ヶ池


宝ヶ池の碑
宝ヶ池から頂上とは反対方向にある
推定樹齢900年になる大ケヤキ


狼煙台の案内板(頂上を背にして)
狼煙台の案内板に向かって右にある曲輪

頂上飯縄曲輪にある飯縄神社
根小屋地区
花の苑地方向から歩いて来た
根小屋地区入口
根小屋地区入口近くにある津久井城址の碑
城山とも城主居館とも違う場所に城があったのか?


堅堀と切岸
案内板があったけれど分からない。

空堀にかかる橋
手前左側の山に三増峠があるそうです。信玄の古戦場がこんなに近いとは!

奥の平らなところに城主の居館(御屋敷)がありました。
手前の平らなところは、馬場だったそうです。

左は、08/ 4/11に、
国道413号線を橋本方面に
向かって走行中(津久井町太井)
に撮った城山。

山桜が残っていて綺麗でした。

09/ 1/26、相模原市城山町川尻から見た津久井城

13/11/24、相模原市根小屋から見た津久井城

三増合戦のとき、赤備え山県隊が駆け抜けた志田峠(津久井町長竹)

1569年、小田原城を取り囲んだ信玄は、たった三日で退却しました。
現愛川町三増で、北条勢の追撃を受けた武田軍は万全の備えで迎え撃ちます。
志田峠を超えた韮尾根で待機していた赤備え山県隊は、機を見て一気に戦場に雪崩れ込み武田軍の勝利に大きく貢献しました。
志田峠は、津久井町と愛川町の境界の近く 津久井町にあります。
津久井町側はそれ程難所ではないのですが、愛川町側はかなりの難所で、オフロード車でやっと通過できる状態です。


車で無理無理峠越えをしたのですが、山県昌景も通った道かと少し感無量になりました。     (07/ 5/26 訪問)

志 田 峠
 志田峠は、志田山塊の峰上を三分した西端にかかる峠で愛川町田代から志田沢に
沿ってのぼり、津久井町韮尾根にぬける道である。かつては切通し越え、志田峠
越えの○があった。
 ここは永禄12年(1569)北条・武田両軍の古戦場で、武田方の山形
三郎兵衛の率いる遊軍が、この道を韮尾根から下志田へひそかにかけ下り、 
北条方の背後にて勝利の因をつくった由緒の地と伝えられる。
 江戸中期以降は、厚木・津久井を結ぶ道として、志田山塊東端の三増峠越えをしのぐ
大街道となった。なお志田山の地名の起こりは、この山が芝山であったことによるという。 
                         愛川町教育委員会
(現地案内板より)

現在の韮尾根の風景

志田峠の看板がひっそりと! 峠から見下ろす愛川側の道

三増合戦の勝利を祝して首実見した首洗池(相模湖町寸沢嵐)

1569年、小田原城を取り囲んだ信玄は、たった三日で退却し、
三増で北条勢の追撃を打ち負かし(10月8日)、二手に分かれて帰途に着きました。
二手に分かれた軍が合流したのは、反畑、現在の相模湖町寸沢嵐です。
このとき、討ち取った首実検をしたのですが、その数3269と言われています。
その首を洗ったといわれる池が首洗池として今も残っています。(現在水はありませんがーー。)
場所は、神奈川中央交通バス停寸沢嵐のすぐそば。
首実検した後、その首をすぐ近くの高台に葬ったのですが、そこに浅間神社が作られました。
現在、浅間神社は建物はなく、神社の石碑と首塚の案内板が残るのみです。(07/ 6/ 8)訪問

(現地案内板より 以下も同じです。)

現在は水がないけれど、池だった面影を残す首洗池
左:バス停に背を向けて   右:バス停に向かって

現在は建物のない浅間神社

首塚の案内板

 
三増合戦で北条勢に勝利をおさめた武田信玄は
甲州へ帰還する途中、このあたりで軍の建て直
しと首実験をを行いました。実験の後、武田勢は
3269体をここに葬ったと言われています。

武田家家臣・原大隈守胤歳の末裔(東橋本)

原大隈守胤歳は、川中島の合戦で、謙信が信玄めがけて一騎打ちを仕掛けたとき、槍で信玄を守ったと
言われています。
川中島の八幡原には、謙信を逃がしたことを悔しがった原胤歳が突き刺したという
執念の石』が残っています。


原胤歳は、鬼美濃として名を馳せた『原美濃守虎胤』と同系だという説と、
同じ武田家臣の『原加賀守昌俊、原隼人佑昌胤(はやとのすけまさたね)』父子と同系であるという説と
両説あるようです。

八幡原の激戦の後の大隅守の動向についてのお話です。
大隅守は、川中島の軍功によって、会村(あいむら・長野市篠ノ井会)と原村(同長野市南・北原)を
貰い、会村には原大隈のお墓もあるとかーーー。
長野県諏訪郡原村が、原大隅守が褒章として貰った土地だという説もあるとかーーーー。
武田家滅亡の後、八王子千人同心として徳川家に仕えたとかーーー。

私の考えでは、会村、原村を貰った後、武田家が滅亡し、八王子千人同心になったとでは?
八王子千人同心となった原胤歳は、現在の相模原市東橋本(当時は小山村)に住み着きました。
その末裔は、幕末の頃千人同心を何人かを引き連れて蝦夷地の開墾にも行ったそうです。

相模原の台地は水の便が悪いので、耕作に不適な土地でした。
幕末の頃、原胤歳の末裔の豪農原清兵衛光保は、この水の利の悪い土地に入植して開墾する人を募り、新田
開発に尽力しました。新田開発は、1843年に着手され、13年の間に49名が入植して200ha余りが開拓されました。
相模原市には、今も『清兵衛新田』→『清新』という地名が残っています。

ところで、八王子千人同心としての原家の系図を見ると、清兵衛光保という名前は出てきません。多分、名主としての
原家は分家ではなかったかと思います。東橋本の原家を見に行ったのですが、現に原家は2軒ありました。

原清兵衛家は、大きな長屋門は残っているものの、現在家族がお住まいの家は、現代的は住宅になっていました。
道を隔てたところにあるもう一方の原家は、立派な門と美しいお庭が少し見えるだけですが、なかなかのお家のように
見えました。
あと注目したのが、原清兵衛家に向かって右側にある広大な『小山家』。
江戸時代は、この辺りは小山村だったとのことなので、由緒あるお家かと思っています。


原清兵衛家から境川まで歩いてみたのですが、ざっと400mくらいです。比較的水の便が良いところに住居を
構えたのだな!と思いました。


ここに書いたものは、推測の域を出ないものもあるので、ご存知の方からの情報をお待ちしています。 
 
                                         (07/12/ 5 訪問)

原清兵衛家の長屋門と
その後ろの近代住宅


家屋の側から見た長屋門
長屋門全景

もう1軒の原家 お隣の小山家の長屋門



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