見て歩く日本の城と史跡ー神奈川県愛甲郡愛川町(1−2)

三増合戦場跡(三増)

永禄12年(1569)10月、武田信玄は小田原城の北条氏康を攻めたのですが、
氏康は予め準備して篭城策をとりました。
結局小田原城を3日間取り囲んだだけで、信玄は引くことになりました。
氏康は、息子の氏照、氏邦に待ち受けて攻撃するよう命じて、激突したのが神奈川県愛川町の三増です。


三増峠の合戦と言われているが、実際には峠で合戦が行われたのではありません。
三増から津久井に抜けるには、三増峠、中峠、志田峠と三つの峠があるのですが、
信玄が旗を掛けて本陣に見せたところが、中峠への道になります。

合戦のおり信玄は、風林火山の旗を中峠への道の途中に立て、本人は別の場所にいました。
この信玄が旗をたてかけたという場所には、現在は厚木東名カントリークラブの中で、
かつては大きな松があったそうですが、火事でやけてしまいました。
二代目の松があるとは聞いたのですが、カントリークラブのフロントで聞いても分かりませんでした。

日本史に残る山岳戦となった三増合戦ですが、韮尾根に待機していた山県昌景が、志田峠を越えて
戦場になだれ込むと、武田軍が一気に有利となり、武田軍の勝利となりました。
北条氏康、氏政親子は、厚木氏荻野まで出陣しましたが、
三増峠の戦いの敗北を知って、小田原に帰ってしまいました。

平成10年、三増合戦の碑から東に130mほど離れた場所から人骨と六道銭が発見されました。
三増合戦の戦死者のものの可能性があるので、合戦場の碑の向かって左に埋葬されました。

                           (07/ 5/28 訪問)

(現地案内板より)

左: 三増の合戦場の石碑と並ぶ、三増合戦の戦死者だと思われる人の墓。
右: 三増の合戦場の石碑。旗かけの松は、石碑に向かって左手方向の小高い丘にありました。

 

中峠に向かう途中にある
信玄旗かけの松の案内

右が、中峠に向かう道

案内板付近から古戦場を見下ろす。
三増合戦場から見た津久井城と旗掛けの松があった小さな山(09/ 5/26 撮影)

三増合戦場から津久井城が、よく見えます。
武田軍は、加藤丹後によって津久井城を包囲させたので、城主の内藤景豊は出陣できませんでした。
内藤景豊は、北条氏照・氏邦が武田軍と合戦していても、津久井城が包囲されたのを良いことに
日和見を決め込んで動かなかったという説もあります。
津久井周辺は、北条の勢力下でもあり、郡内の小山田氏の勢力下でも微妙な立場にありました。
そういう微妙さが、内藤景豊に出陣する決心をさせなかったとも言えます。

三増峠(三増)

三増峠の合戦と言われていますが、実際は三増峠から直線距離で3km程離れたところでの合戦でした。
北条氏輝・氏邦は上宿、下宿、中里に陣を張って、武田軍を迎えたといわれていますが、
上宿、下宿、中里も三増峠からかなり下ったところだったようです。(09/ 5/21 訪問)

県道65号線
進行方向:津久井町根小屋
後方:三増交差点

三増峠は、トンネルの上です。

左の写真の右手にある登山道
武田軍が帰陣のために作った道だと
言われています。
     標高 319m

左: 三増峠に到着。峠は三叉路になっていて、左右両方に道があります。
左は県道65号線と合流しますが、通行止めになっています。
右は、津久井城の根小屋(津久井城の城主の住居があったところ)への道です。
右: 標高319m

細野城跡(半原)

細野城は、田代城主内藤下野守秀勝と三郎兵衛秀行が、
田代城とは中津川の反対側に作ったものだとされています。
三増合戦のとき、田代城とともに、落城したと伝えられています。(09/ 5/21 訪問)

(現地案内板より)

中津川に架かる馬渡橋(左に田代城狼煙台、右に田代城)

左: 細野城の名残を残す地名となっています。
この坂を登っていくと鎮魂碑があり、その裏山が城跡です。
右: 裏山を上っていくと、小さな祠があります。ここが二の丸跡か?という説もあります。

左: かなり険しい登り道です。
車でも行けるのですが、やはりここは歩いて登りたいです。
右: 城跡は、今は会社の寮となり、そばをバイパスが通ったため、
遺構は何も残っていません。



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