見て歩く甲斐武田氏の史跡ー長野県茅野市(大門街道沿い)(2)

狼煙台ネットワーク・朝倉山城跡(北山)

茅野市北山にある朝倉山城跡は、『朝倉山』→『関守伝十の墓近くの城山』→『雀ヶ森』→『鼻戸屋』
と続く狼煙の中継地だったという伝承地です。大門街道(国道152号線)を北に進み、
功徳寺を越えたところで左折して湯の川沿いに進むと案内板があります。

この案内板を右折して進んだところにある上り口から登ったのですが、
これ以外に西側山麓からの上り口もあります。
南側に降りる道を下ったのですが、その上り口は、県道からはとても見つからないところにでした。
いずれにせよ、頂上までの道のりは30分ぐらいです。

朝倉城は別名塩沢城とも言われます。
それは、塩沢安兵衛という人物が天文年間の信玄の信州攻めに参加して朝倉城を守ったからです。
朝倉山は北信濃方面への交通の要所である大門峠等とても見晴らしがよいので重要な地点でした。
信玄の狼煙台に使われたというのは、伝承だそうですが、なるほど!と頷ける立地です。

頂上付近は、本丸跡、空堀跡などよく残っていて、一目で分かります。
また、南側へ下る道には石仏が点在して、郷愁をそそられます。

武田勝頼死亡後、塩沢安兵衛の子供の塩沢将監は、出家して塩沢寺を開基しました。(06/11/16 訪問)

(現地案内板より)

東側から見た朝倉山

西側から見た朝倉山
頂上

頂上の本丸跡
二の丸へ続く道(南側の下る道)
(左右は空堀)


南側の下る道に点在する石仏の一つ
南側の下る道に点在する石仏 麓近くの鳥居
 
湯殿坂(北山)


これは、T字路になっている
芹ヶ沢の交差点を後ろに、

渋川方向(北向き)に撮った写真です。
国道152号線(大門街道)にあるこの坂は、
信玄縁の『湯殿坂』と呼ばれるそうです。

詳しいことは書かれていませんが、
武田軍が信濃を往還する途中、
渋の湯から温泉を運び、
この地で疲れを癒したものと
言われていると聞きました。 (09/ 4/1
0 訪問)

湯川砦(枡形城と原の城)跡

2009/09/06 に、原村主催の『棒道を往く』という講座がありました。
私もそれに参加したのですが、詳しいことを教えていただいて、とても参考になりました。
そのときの画像です。

現在茅野市の郵便番号を調べてみても、湯川の地名が残っていません。
でも、国道152号線、芹ヶ沢の交差点付近と北の地域は、かつては湯川と呼ばれていたようです。

ここに信玄築城と言われる湯川砦(枡形城と原の城の総称)がありました。
現在は私有地となって、城があった跡はほとんど見受けられません。
しかし、かつてここは、信濃攻略や川中島合戦の折の重要な拠点であったと言われています。
甲府から大軍が進攻するには、1本の道を通ったのでは時間がかかりすぎます。
何本か道に分かれて進行し、また各地の軍隊も夫々の地域から集まってきました。
その集結地点が湯川砦であったと考えられています。
湯川砦は、南北に流れる渋川と滝の湯川との間に挟まれた広大な城でした。
狼煙台であった朝倉山を見ていると、『兵が夢の跡』という感じがします。
 (09/ 9/ 9 訪問) 


(現地案内板より  以下も同じです。)

枡形城と原の城の間の広い空間は、
信濃進攻の折の集結場所だったと言われています。


枡形城と原の城の間にある深い壕『砦の沢』

枡形城は、滝の湯川砦の沢に囲まれたところにあります。
今は、もうないのですが、城の入り口には『馬出し』という土塁があって、
この土塁が、騎馬武者が城から出る直前まで隠していたそうです。

一般に城は、一段高いところにあることが多いのですが、枡形城は一段低いところにあって、
そのことも、武田軍の集結場所だったと言われる理由にもなっています。

枡形城は今は跡形もなく
畑になっています。


正面の見えるのは
狼煙台があった朝倉城
原の城の案内板は、畑の隅っこの崖の上にあります。
なぜ、ここに?と疑問に思ったのですが、城の案内図を見ると、
案内板のある位置が、城の大手口だったという言い伝えがあるからのようです。
大手口は、旧大門街道から崖を上る感じで繋がっています。

 
武田の城に見られる三日月掘
崖の上、畑の端っこにある原の城跡の案内板


崖の下が旧大門街道? 原の城は、今は何も残っていませんが、
崖の上にあったことはよく分かります。


大門街道は、長和町に続きます


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