見て歩く甲斐武田氏の史跡ー静岡県富士宮市(1−2)
当頁で使用した吉野家関連の画像・文書等は、吉野家の許可を得て転載しました。

山本勘助と吉野本家(富士宮市山本)との関係略譜


吉野家は、南北朝時代に大和国吉野郷から、現富士宮市山本に移住しました。
当時、移住先の地名を家名にすることはよくあったことですが、吉野家は『吉野』を名乗りました。
分家して、その分家が地名『山本』を名乗ったわけです。
源満政は源経基の弟で清和天皇の孫にあたり、源経基の系統が、甲斐源氏に繋がっていきます。
吉野家は現在も富士宮市山本で続いていて、現在のご当主は19代目です。

山本勘助の本家・吉野家と母安女のお墓(山本)

山本勘助は、現富士宮市山本の吉野家の分家
山本家で生まれました。
幼名を源助と言います。
源助は12歳のとき、
牛窪の大林勘左衛門の養子となり
大林勘助を名乗りました。
その後20歳のとき、大林家を去り、諸国を巡り
文武両道に励みました。
武田晴信の家臣になったときは、
勘助が50歳くらいになっていました。
残念なことに、第4次川中島合戦で討ち死にし、
勘助の息子も長篠の合戦で討ち死にしました。

吉野家は、江戸時代は3千石の所領を預かる
陣屋代官を勤め、今日に至っています。
上は、江戸時代14代吉野郷三郎(有信)が、陣屋代官をしていたときの建物で、
昭和36年にもらい火で全焼したそうです。      (08/ 3/26 訪問)

長屋門は当時のものが残っています。
両脇に門番小屋があって、向かって右横が通用門になっています。

長屋門の前にある『山本勘助誕地』の碑

上の写真は昭和天皇が摂政宮だった大正13年に、摂政宮の御成婚を記念して、
静岡県庁の補助を受け建てられた、『山本勘助誕生地』の碑です。
裏面に勘助の履歴が彫ってあります。

その碑文の注目点です。
貞幸亦文武を励み諸国を巡遊して参州牛窪に住し山本氏と称し
同地の人大橋入道の女を娶り 後山本村に帰住して一子を挙げ現助と名づく。
三州牛窪も勘助の誕生地だとされている理由は、これなのでしょう。

軍学の応用築城の利害を研鑽して其の奥義を極め、牛窪に帰住し軍学兵法を講じ
其の名四境に 聞こえしかば、武田晴信幼時慕い来たりて其の居を訪ね窃に主従の約を定む。

子息某嗣亦長篠に戦死し跡を絶つ。
山梨県北杜市高根町に、山本勘助の末裔だとおっしゃるお家が現存しています。
高根町は勘助が武田晴信に仕官した時、給された所領地だということです。

左の写真は、
吉野家から歩いて2分くらいのところにある
勘助の母、安女のお墓です。
元々は、吉野家の屋敷のはしにあったものを、
昭和58年に18代吉野家ご当主が、
吉野本家の墓地を整備したときに、
移転したのだそうです。

昔のお墓は、小さなものが多いですが、
安女のお墓も、小ぶりの可愛い感じのものです。
勘助の母・安女のお墓

山本家があった宗持院跡付近と勘助坂(山本)

石ノ宮神社の隣が宗持院跡 石ノ宮神社

吉野家2代目当主貞久は、長男貞宗に家督を譲り、次男の貞幸を連れて隠居しました。
隠居してこの地の名前『山本』を名乗ったわけです。
その山本家の発祥の地は、本家吉野家からそれほど遠くないところで、

かつては宗持院というお寺があった場所の南側付近だと言われています。
現在は宗持院はなくなって、石ノ宮神社だけが残っています。

なお、勘助の長兄貞次は、吉野家の4代目を継いでいます。

宗持院跡近くにかなり急な坂がって、地元で勘助が子供の頃遊んだ坂、『勘助坂』と呼ばれています。
宗持院跡と勘助坂へは車両通り抜け不可となっていたので、代信寺の駐車場をお借りして歩きました。
                                  (08/ 3/26 訪問)

宗持院跡近くの勘助坂



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