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                    山本勘助は、現富士宮市山本の吉野家の分家 
                  
                  山本家で生まれました。 
                  
                  幼名を源助と言います。 
                  
                  源助は12歳のとき、 
                  
                  牛窪の大林勘左衛門の養子となり 
                  
                  大林勘助を名乗りました。 
                  
                  その後20歳のとき、大林家を去り、諸国を巡り 
                  文武両道に励みました。 
                  
                  武田晴信の家臣になったときは、 
                  
                  勘助が50歳くらいになっていました。 
                  
                  残念なことに、第4次川中島合戦で討ち死にし、 
                  
                  勘助の息子も長篠の合戦で討ち死にしました。 
                   
                  吉野家は、江戸時代は3千石の所領を預かる 
                  陣屋代官を勤め、今日に至っています。 
                  
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                        上は、江戸時代14代吉野郷三郎(有信)が、陣屋代官をしていたときの建物で、 
                        昭和36年にもらい火で全焼したそうです。      (08/ 3/26 訪問)
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                        長屋門は当時のものが残っています。 
                        両脇に門番小屋があって、向かって右横が通用門になっています。 | 
                       
                    
                   
                     
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                  長屋門の前にある『山本勘助誕生地』の碑 
                     
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                           上の写真は昭和天皇が摂政宮だった大正13年に、摂政宮の御成婚を記念して、 
                          静岡県庁の補助を受け建てられた、『山本勘助誕生地』の碑です。 
                    裏面に勘助の履歴が彫ってあります。 
                     
                    その碑文の注目点です。 
                  
                  
                    
                      
                        貞幸亦文武を励み諸国を巡遊して参州牛窪に住し山本氏と称し 
                                同地の人大橋入道の女を娶り 後山本村に帰住して一子を挙げ現助と名づく。 | 
                       
                    
                   
                  
                  三州牛窪も勘助の誕生地だとされている理由は、これなのでしょう。 
                           
                  
                    
                      
                        軍学の応用築城の利害を研鑽して其の奥義を極め、牛窪に帰住し軍学兵法を講じ 
                                其の名四境に 聞こえしかば、武田晴信幼時慕い来たりて其の居を訪ね窃に主従の約を定む。 | 
                       
                    
                   
                   
                  
                  山梨県北杜市高根町に、山本勘助の末裔だとおっしゃるお家が現存しています。 
                  高根町は勘助が武田晴信に仕官した時、給された所領地だということです。 | 
                         
                      
                     
                     
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                  左の写真は、 
                  吉野家から歩いて2分くらいのところにある 
                  勘助の母、安女のお墓です。 
                  元々は、吉野家の屋敷のはしにあったものを、 
                  昭和58年に18代吉野家ご当主が、 
                  吉野本家の墓地を整備したときに、 
                  移転したのだそうです。 
                   
                  昔のお墓は、小さなものが多いですが、 
                  安女のお墓も、小ぶりの可愛い感じのものです。 
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                  | 勘助の母・安女のお墓 | 
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