| 川中島合戦両軍陣営 |
| 天文22年(1553)に第1回目の川中島合戦があって、以来10年間にわたり数回の合戦を繰り返した。永禄4年(1561)の戦 |
| いは上杉方が仕掛け、8月14日上杉謙信率いる1万3千の軍勢は春日山城を出発、長野、善光寺に5千の兵を残し、8千の兵で |
| 妻女山に陣を張った。 |
| 一方の武田軍は、妻女山から4km北東にあった海津城主高坂昌信が、直ちに甲府の武田本陣に、各山に設置された烽火台に |
| よって2時間程度で伝達し、8月18日兵力1万をもって躑躅ヶ崎館を出発。信州上田に到着したときは、信州勢を合せ1万8千人 |
| になっていた。 |
| 武田勢は千曲川を渡って石川茶臼山に陣を取り、その後海津城に移り、敵攻撃の準備をしていた。その軍議会議に上杉を攻め |
| ろ方法としてキツツキの戦法を山本勘助が提案し、信玄曰く山本氏は軍戦に秀でているが、知恵あるものは我が知恵に迷うこと |
| がある。大丈夫かと念を押すと、山本氏ご懸念には及ばずと言って信玄の言を押さえ、いよいよ9月9日別動隊1万2千を率いて |
| 妻女山の裏手にまわり、夜襲をかけて敵を追い出した。その敵を八幡原で武田本陣が迎え撃つ作戦であった。しかし上杉勢は連 |
| 見日の双方合い合戦で得た資料をもとに、武田軍勢の兵糧の煙が多いのに気づき、あれに見える煙は武田の軍勢近く出陣の兆 |
| しありと読み、9月10日、朝には一足早く八幡原に押し出していた。 |
| 一方武田の軍勢8千は八幡原にあり、一寸先も見えぬ霧が晴れたとき、目の前に上杉勢が押し寄せ手いるのを知り、軍を立て |
| 直し猛攻を防いで激戦中敵の裏手にまわった別動隊1万2千が到着。はさみ打ちとし上杉軍は完敗して散った。戦は午前4時頃 |
| から4時間程で終わった。 |
| この絵は、謙信が武田軍勢の兵糧の煙を見て策を下してるところ(兵糧とはにぎりめし等の用意)。この戦いで武田勢は |
| 山本勘助ほか多数の武将を失った。 |